2017年2月17日金曜日

ジャックダニエルとテネシーウィスキー

ジャックダニエルといえば、「バーボンでは無くテネシーウィスキーである」と言う話は割と良く知られている話です。味はバーボンに似ていて実際に製法もよく似ているのですが、大きく違う点として、ジャックダニエルはいわゆる「リンカーン群製法」と呼ばれる製法を用いている事が挙げられます。

リンカーン群製法とは、樽詰めする前のニューポットをサトウカエデの炭で濾過する手法の事で、俗言うチャコールメローイング製法の一種です。こうする事でニューポットをまろやかにすると言われています。

しかし、「バーボンの歴史」の著者、リード・ミーテンピュラーによると、ジャックダニエルは別にバーボンと名乗れない訳では無いのだそうです。テネシーウィスキーを名乗る条件にリンカーン群製法の有無は規定されていないし、バーボンを名乗る規定は満たしているので、ジャックダニエルはいつでもバーボンを名乗る事は出来るのだといいます。

バーボンの規定を調べると以下のような規制があります。

・アメリカ合衆国で製造されていること。
・原材料のトウモロコシの含有量は51%以上であること。
・新品の炭化皮膜処理されたオーク樽を製造に用いること
・80%以下の度数で蒸留されていること。
・熟成のために樽に入れる前のアルコール度数は62.5%以下であること。
・製品として瓶詰めする場合のアルコール度数は40%以上であること。

これを見る限りでは、やはりバーボンと名乗るのは問題なさそうですよね。
バーボンにはコニャックのようなブランド化を進めた時期があり、上記のような法律がある事を鑑みると、バーボンと名乗ってもよさそうなものなのですが、何故テネシーウィスキーである、と頑なに言うのでしょうか。


その点について、ジャックダニエルの伝記を書いたピーター・クラスは創始者ジャックの気質ではないかと指摘しています。

ジャックは蒸留技術において高い評価を受けていた一方で、身長は150㎝程度と非常に小柄でした。彼は身長と自尊心を引き上げる為に踵の高いブーツを履いて、派手な色の服を着ていたという、中々に野心的で見栄っ張りな男だったそうです。

そんなジャックダニエルですが、7歳の頃に蒸留所オーナー兼牧師のダン・コールの元に奉公に行き、ずっとそこで蒸留技術を学びました。そしてダン・コールが牧師業に専念する為に、ジャックに蒸留所を任せたのは実にジャックが13歳の頃。そしてその数年後に南北戦争は終わります。

テネシー州は南北戦争における激戦地の一つで、北軍に蹂躙され復興もままならない状況の中、戦争が終わってもなお北部に対して強い敵対心を持った人達が大勢いました。一方で、隣のケンタッキー州はさっさと北軍寄りになり、戦争の影響も比較的少なかったので復興も早かったそうです。

テネシー州のウィスキー蒸留業者達は、そんなケンタッキー州の好景気を羨望と軽蔑の眼差しで見ながら、ケンタッキー州の蒸留業者達が自分達のウィスキーをフランスの王族にちなんだ鼻につく名前「Bourbon=ブルボン=バーボン」と呼んでいる事に対して反感を持っていたのだそう。

ジャックがウィスキー作りを本格化したのは、まさにそんな時期で、しかも10代という多感な青年期。
前述のような野心家の彼ですから、ケンタッキー州の蒸留業者達が得ているような富や名声を自身も同様に受けたいと思っていたことでしょう。しかしそれは彼らが用いているバーボンと言う名前ではなく、あくまでテネシーウィスキーとしてでなければいけないと思っていたのではないか・・・、という話。


とまぁ、そういう話を聞くと、やはりジャックダニエルはテネシーウィスキーと呼ぶのが正しいように感じますね:)

「自由と独立の為に戦ったテネシー魂こそがアメリカの中のアメリカ」みたいなニュアンスが、テネシーウィスキーと言う名前にはあるのかもしれません。

もちろん、現代においてはそういったことも含めてマーケティングの枠組みの一つでしょう。
ただ日本人の私達にとって、アメリカの南北戦争というものは認識が薄いものですが、アメリカ人なら誰でも自国の歴史として学んでいますし、州は一つの国のように一定の独立性が認められていますから、州ごとの温度差は今でも事あるごとに認められる国であるように感じます。大統領選挙戦などはその最たるものですよね。

だから自国の歴史を学んできた米国人達にとってテネシーウィスキーというネーミングは、きっと現代においても、我々よりももっと色々な事を想起させるネーミングなのかもしれませんね。

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